遙か5夢

慎太郎とその妻
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14.あべまき 後編







家に聞いたら裏山だって言ったから。そう笑う龍馬は変わらない。慎太郎の不在を伝えれば、残念そうに眉を下げながら小さなため息が漏れる。
そんな何気ない仕草が、今のリンにはやたら目についた。
何気なくその意味を問えば、予想に反して龍馬は言いにくそうに口籠る。
きょろきょろと周囲を見回しては、刹那の間を作り出した。気付かぬ者には気付けない程の、刹那の奇妙な間である。
不安が高まるリンを余所に、とうとう決意したらしい龍馬は一歩彼女との距離を詰めた。出来るだけ自然に、他愛もない事のように言う。


「藩を出る事を決めた」


けれども小さな声で。冬の静寂を割って入ったその言葉は恐ろしいまでにリンの心を凍らせた。
耳に入った瞬間に、きやり走った胸と気管支への痛みは紛れもない本物のそれで、瞬間にして指先まで走っては血と熱を奪い去ってしまう。
目の前にいるのは坂本龍馬、その人でしかないはずなのに、同じ背丈が、広い肩幅が、“その言葉”が、慎太郎と重なって振り払えなかった。

何と言っていいのか分からず俯くリンに、龍馬は同じ調子で話しかける。
ただ、その声にはすでに気遣いの音が含まれている。
何もかもを見抜いてしまうこの男を恨めしく思うより先に、体がその場に崩れ落ちた。からん、と音を立てて薪が幾本か転がって、視界の端に龍馬の手が写り込む。
手渡された薪を受け取る為にとうとう顔を合わせたのだが、移った彼の顔はやはり、坂本龍馬でしかなかった。


「なあ、リン。教えてくれないか」
「…な、にを……でしょう」


よろよろと立ち上がり、視線を近づける。迷いのない甘茶色の瞳は、場に似つかわしくない、優しさを映し出していた。
まるで琥珀の中に囚われた虫のように、身動きが取れない。


「あんたをそんな顔にさせるのは誰か分かるか」
「…………」
「なあリン」
「私自身、ですよ」


海の中へと落ちていくように、視界の滲みは深くなり龍馬が色へと変化する。
苦しくて息が出来ないここは、寂しくて疎んでいるはずの場所であるのに、リンに奇妙に安心を与える。まるで水の盾で守るかのように。
龍馬色がゆらゆら動いて、海老茶色が波紋を作る。あれは口がある辺りだろうか…必死に何かを紡いでいるのかもしれないが、水の膜に包まれたリンに言葉は届かない。

だって答えは決まっている。

淋しい想いに囚われるのも、明るい場所へ連れ出そうとするあべまきを踏みにじるのも、いつまでたっても一歩を踏み出さないのも、すべて自分のせいでしかないのだ。
欲しい未来があるのなら、その為にと走り出す龍馬とは違う。慎太郎とも違う。
傷付くのが怖くて、失う事が怖くて、あれよこれよと理由をつけては、同じ場所へと戻っていくのは誰のせいでもないのだから。


「知っているの」


ぶくぶくと、泡が漏れる。龍馬には届いただろうか。随分深くまで潜ったからか、リンのいるそこまで光は十分に届かない。
深い青の、黒冷えるその海域で見上げた空は、酷く眩しい。鳥が、風が、自由に行き交う綺麗な世界。


「私 本当は 聞き分けなんて、よくないのに」


ぽろぽろと涙があふれるけれど、それは全て海に溶け込んで消えていく。人の涙が海を作り上げたのだとしたら、泣いてばかりの私は、やっぱりここがお似合いで。
からから笑う龍馬のように、困ったように笑うあの人のように、空で生きていく事は出来ないのだ。

憧れの光の空から、視線を外して丸くなる。
膝を抱えて小さくなった体は浮力を失いゆるりゆるりと深海の底へ誘おうとする。
冷たい、暗い、けれども懐かしいそこから聞こえてくるのは優しい声だ。
だからあんなに言ったのに、馬鹿ね。と。
それは自分の声に酷似していた。
その声に、伸びてくる深海の手に、実を委ねようと手を解いたその時であった。

大きな音と泡を纏って、男の腕がリンのそれを掴み、強引に引き上げていく。痛いほどに力の込められた指先が腕に食い込み、リンは顔をしかめるが、お構いなしにそれは連れ去る速度を緩めない。
海の闇が段々と遠ざかっては、水面へと近づくにつれて色彩を得る己の体。見上げるだけの、憧れるだけの目映い空がすぐ目の前に迫っている。
龍馬色のそれが、だんだんと形付いて――――龍馬へと、帰った。


「あんたの、悪い癖だな」


地上の、新鮮な空気に馴染みない肺が驚きに震えていた。
先ほどと何も変わらない景色なのに、酷く眩しいその台地は、朝の目覚めの刻のように清らかな空気を放っている。
これ以上傷つかぬようにと耳を閉じ、意識を閉じ、思考を閉じて空想へ逃げ込むリンを、龍馬は叱った。悪い癖だ、と。


「さっきみたいに言えばいいんだ」
「…さっき?」
「“聞き分け”よくないんだろ?なら、我儘言っちまったらいいのさ。前にも言っただろ、あんたの我儘一つ叶えられないほど、慎太郎は小さな男じゃないってな」


ちりちりと目の端が焦げ付く。次第に強さを増していくそれは雷を落としていくように、リンの目の前を走っていった。
目映い光のようなそれは鋭く、けれども決して痛みは伴わずに鮮烈な影だけを残して思考の霧を払っていくのだ。まるで、旋風のように。


「…ずっと、一緒にいたいって…言っていいんですか?」
「ああ。慎太郎、喜びそうだな」


からり、と龍馬は笑う。羨ましそうに、少しだけ目を細めながら。


「どうせ慎太郎の事だ、日本を開く己の信念、大義名分にリンを重ねているんだろう。だが、あんたの願いは、直接的にはそれじゃない」


―――なら、それを教えてやらなくちゃ、あいつは一生勘違いしたまんまだぜ。
その言葉を皮切りに、箍は外れて再び涙が溢れ出した。幼子のように、泣きじゃくるように、肩を弾かせて。
かつて龍馬に言われた。「そうだ、あんたが望む事を言えばいいんだ」と。

あの日、慎太郎へ己の想いを伝えたはずであった。
彼はどうだったろう、大きな腕で包み込んで、決して離さないと誓ってくれたはずだった。

ずっと一緒にいたい。
あなたの一番になりたい
。―――とうに一番だと、彼は言った。
分かってくれたと思っていた。


「誰にでも間違いはある。世間が“間違い”だと言っても、あんたは“自分の我儘だから”と、伝えるのを避け続けてたら―――慎太郎は“家を蔑ろに志士活動に没頭する道楽者”になるってこった」
「そんな…。でも、」
「慎太郎はあんたが一番だって言ったんだろ?なら、世間の意見が正義なんじゃない、あんたが正義なんだ。あんたがあいつの手を引かないで、どうしてあいつが正義を貫ける?」


龍馬の話は難しい。ひとつひとつの言葉を逃さぬようにゆっくりと受け取っては、飲み下す。
慎太郎も間違える?家を蔑ろにする道楽者?いいえ彼は己が全てで未来を切り開く素晴らしい人――――けれど、


「私が、手を引く…?」
「後ろを歩いて見送るばっかりじゃだめだ。隣に立ったって誰も咎めやしないんだからな」


大丈夫、リンなら傾城にはならんだろう。根拠のない言葉に戸惑う視線を返すが、龍馬はどこ吹く風といった様子でそれをいなしていく。
流れていく風の根元に、暁の日があるというのならば、それこそが己の求める“夜明け”なのかもしれない。

深い霧が明けるように。
視界の先が開けていく様に、飽きもせずに溢れるのはやはり、涙であった。
農具を握っていた腕は、記帳を記す細腕となった。
けれど同時に圧し掛かった“中岡”の重責、そして“大庄屋”の肩書。どんな農具よりも本当はずっと、重かった。

もう、いいのだろうか。
あの人は、ふたりのはじめの日“俺と共に苦難の道を歩んでほしい”―――そんな事を言っていた、気がする。

それは、どういう意味だったのだろう。


「…いいえ、ずっと、……ずっと」
「リン?」
「……ああ、……どうしましょう」


ぱちり。黒が支配する盤上にひとつ置かれた白の石のように。久しく忘れられていた気配を辿って、周囲は大きくどよめいた。黒が、見る見るうちに白へと変わる。
まるで、一面の、清らかな雪原のように。導き出されていく、忘れられた記憶。


「ただ、“俺と共に在って…笑って欲しかっただけ”」


私が泣く度に、私が苦しむ度に、同じように苦しんで、怖れながらも手を差し伸べ続けてくれた。
彼が望むものも、追い求める夢も、何もかも、ずっと変わらなかったではないか。


「……わたし、捨ててもいいのね」


独り言であったか、問いかけであったか。
冬の静寂に消えていったその言葉を追う者はいない。
無性に泣き出したくて、リンはその場を静かに離れる。龍馬はその背を、追いはしなかった。

冬籠り前の山の水は多くもなく、少なくもなく、ただ平然とあるがまま流れては、美しさとは程遠い朽ちた枝を葉を運んでいく。

微かな川の音をかき消すように、リンは、声を上げて泣いていた。



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